たー坊の適当な人生

見た目より、適当な人生かもしれません

人は肩書によって判断され、惑わされる

12月半ばの日曜日、如何お過ごしでしょうか。

すでに残り僅かとなってしまいました。

よく忙しい、慌ただしいと良く耳にします。

 

「忙しい」、「慌ただしく」を見てみると、

「心を亡くす」、「心が荒れる」となっています。

どうでしょうか。

日頃、何となく使っている漢字ですが、

気にもとめず、言葉を発しているはずです。

言霊という言葉がある通り、

自分は発している、聞いている言葉によって

左右されている感じがしてなりません。

 

話が逸れてしまいましたが、今回のテーマは

「人は肩書によって判断され、惑わされる」

という事です。

 

社会人ならば、名刺を持っているのは当然ですが、

どうしてもひととなりの判断は、名刺に記載されてある

肩書で判断してしますものです。

 

はじめにその相手方の肩書ありきで、判断してしまう

傾向というか、きらいがあります。

そして、当の本人も、自分の事を勘違い

してしまう方もいるのでは、ないかと思うのです。

 

たまに聞くのが、「肩書」取ったら「ただの人」

まあ確かに、肩書は無くてはならないものです。

しかし、その人本人がそれに見合う立派な方か、

というとそうではありませんよね。

 

個人的な感想として、自分自身は肩書なんてなくても

よいと思っています。むしろ邪魔です。責任と

責任の所在のありかをはっきりさせる場合は、

それは、無くてはならないものです。

 

さらに、自分が属している会社の場合を

考えてみたいと思います。

社長、それに続く部長職に就く方など。

それらの方々に、パワハラ的な言動を受けた場合などは

こうしましょう。

 

普通の人間に、本人が欲しくもない肩書をつけられた人々。

(注:皆が皆そうではありませんが)

肩書をとったら普通の人なんだがら、恐れる必要はないし、

聞き流せばいい?位の気持ちを持っていないと、

うつ病などになったり、心の病を抱える事になりますから。

 

でも、正直難しい部分はありますけど。

なので、事前にそういった事を自分自身、

認識する事も大事だと思っています。